私の家には旧ダイエーホークスと旧FIAT YAMAHAレーシングチームのいずれも応援用の手旗しか無い。つまり日の丸はない。そのことの是非をここで言いたいのではなく、人が人を見るときの捉え方というか考え方というのが実に様々で面白い(時には不愉快)という話である。
人が10人居れば10通りの考えや意見があって当然のこと。まとまることの方がかえって薄気味悪い。すこし乱暴な例えかもしれないが、生物多様性が食物連鎖環や自然環境の保全の為にとても重要であるのと同じく、多くの意見や考え方、感じ方があるのは社会が健全で在るために必要なことであると思うのだ。
自分と異なるものを排除したがる、これは生物が自らの種をのみ保存していきたいという欲求(または与えられた使命)からくる自然な生存競争であるので、それ自体を否定はしない。いじめが無くならないというのもそこに根ざすものであると考えれば分かり易い。だが我々は人間である。自分と異なるものを排除するという心を抑え、必要な競争なのかどうかを理知的に判断して行動ができるはずなのではないか?
本当の意味での大人となり、物事が見え始め、国というものについても考え始めるとき、それは単なる土地や山河や海ではなく、そこに暮らす人間の文化と暮らしをも含むはずである。ご先祖様、親兄弟、親戚・・・そして大切な友人、他人から家族となった相手、一緒に築いた家庭の構成員である息子や娘、その友人・・・。彼らの現在と未来に想いが及ぶはずである。「これでいいのか」「何故今こうなのか」「どうあるべきか」そのように考え、世の中の矛盾や歪み、様々な不正や虚構、阻止すべき企みや謀(はかりごと)に気づき、そして発言を始める。
本人は偏狭にならないように考えていてもその発言は相対的に見られるしかなく、たとえ中央に立っていてもその左にいる人間からは右側にしか見えない。人を指してを「右だ」という人、その本人は中央に立っているつもりなのである。(あなたが絶対中央に立っているとどうやって証明できるのだ?そのような計測器やスケールの存在を私は知らない)
冒頭に書いた如く私は国旗さえ持たないし、中国人や韓国人の知人もあるし、かつては英・米・豪の友人と遊びまわってもいた。外国人を全て排斥しようなどとは一言も言っていないし、好きな外国もある。しかしながら見る人によってはそんな私が国粋主義者的であるという。これには失意し、力なく笑うしかない。
私は外国の政府が自分たちの戦略に則って我々の子供達の頭の中をいじろうとしている状況が宜しくないと言い、そうした状況を作り出すのに関わってきた(或いは関わっている)企業や団体を指して、人々に「騙されるな」「眼を覚ませ」「気づけ」という警告を発してきただけなのである。
このように誰かが考えて物言うとすぐに自分と違う(多くの場合新聞やTVのみしか情報源としていないことによる無知)という理由だけからレッテル貼りをして自分なりの分類をし、安心しようとする類の人がたくさん居るのは動かしがたい事実であるから、良ちゃん、例えば「あんたは右だ」とか言われることなど恐れるな。自分が偏狭とならないように知識を吸い、客観的に自己チェックして自分なりのバランスをとればいいのだ。人の言うことなどをいちいち気にしていたらそれこそ口を封じられて思考停止してしまう他ない。自分がどう見られているかは無視は出来ないが、そこを判断基準にすべきではないと思う。
私は友より贈られる予定の日の丸を掲げ、私の思うあるべき日本に少しでも近づくように微力を尽くそうと思うのだ。