facebookの友人のウォールに長文コメントを書いてしまったので、こちらにも転記。

【私見】いじめは異端を排除し、種の優性な特質を獲得保持しようとする自律性に根ざす部分があると思う。だから動物にも見られる。生物的に強い個体が生き残り、弱い者やメインストリームから外れた要素を持つものは淘汰にさらされる。顔や肢体の美しいものがもてはやされたり、アスリートが人気を博したり、優れた理論を展開する学者が尊敬を集めるのは何故だ?その逆の馬鹿で醜く鈍臭い者が隅っこに追いやられるのは何故だ?つまり、人間が動物である以上、いじめは根本的に無くならない。

生物多様性が生態系の豊かさにとても重要であることは近年明らかになってきていて、同種や近い種の中においても「いろんなやつがいる」を許容することは(飛躍するかもしれないが)人間が人間らしくあり、豊かに栄えることの必要条件であるようにも思えるのだ。TVのチャンネルを変えてどこも同じ番組ではつまらない。クラシック音楽は素晴らしいが、それしかなかったら退屈かもしれない。ネタの種類がひとつしかない寿司屋に足を運ぼうとは思わない。均一が進みすぎるのはつまらなくし、進歩を止め、衰退へと向かう。グラスの底に顔があってもいいじゃないか。

様々なかたちの自己発現をお互いに許容できなければ人間性は貧しい、民度は低いと言えるのではないか。重要なことはそのような考えを大人社会全体が認識し、自ら賢くなろうという空気を当たり前のこととしていく啓蒙であるように思う。弱肉強食は原理原則である。お手々繋いでゴールインの駆けっこなど愚かしい。しかし弱肉強食を不必要なところまで持ち込ませないのが人間としての知恵であろう。まずは大人が賢くなる、その有効な手段を探すべきなのである。