キャリブレーション。技術的な仕事に就いてる人にしか馴染みのない単語だろう。わしがやってた職種では「較正」「ゼロ調整」みたいな使い方をしていた。

さて、人と言うものは全く同じ環境、全く同じ境遇にあっても、求めるところが違うので同じようには感じない。例えばトヨタクラウンを手にして「うん、俺もそこそこの大人にたどり着いた」と満悦できるか「俺にふさわしい車はこの程度じゃないはずだ、もっと高価で人がうらやむ車が欲しい」と不満に感じるか・・・そのようなことである。
たぶん前者が正解だと考える人の方が多いだろう。実質が同じことならば、より幸せに感じて生きていける方が得策だと。I think so. わしもそう思うのだが、その考えを自分にあてはめるとそうもいかないところもあったりして・・・チョトダケデイイカラポルシェフェラーリノオーナーニナリタイトカ。

起きて半畳寝て一畳(わかりますね?)
朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり(あぁ、無常!)
裸で生まれて裸で死ぬ・・・どんなに豊かになってもそれを墓に持っていくことはできないわけですから、そんなに欲かいてんじゃねーよっ!という
先人の教えですねー。ときたま思い出して自分を引き戻すようにしています。

満足してしまっては進歩が滞る、それも確かにある。人というものは基本的にナマケモノですから不自由や不満を抱えていないと精神も頭脳も鈍っていくようです(と、また公務員を皮肉るか?)。しかし、不自由・不満の対極である「(自分の勝手になる)自由」や「(欲しいもの全てを手に入れる)満足」が、ある線を越えるとその実現手段が他からの奪取によらざるを得なくなるのは、ほれ、亜米利加見れば端的に示されているし、海を越えずともそんなことって身の回りにもたくさんありますよ。

幸福感の定義のキャリブレーションというのは、ちょっと言い換えただけで
「身の丈にあった○○」という単純なことだし、「必要十分条件の再確認」という作業ではないか。資源のない我が国が節約と勤勉を原動力に大国になったことを手本とし「勿体無い」を世界共通語にしようという動きもあるらしい。