我が父は満州に出征。戻ったときには豊かだだった髪が殆ど抜け落ち、脛には大きく銃槍があったと大分の叔母から聞かされた。彼も四人の息子たちに従軍中のこと、戦争にかり出された先で何をしたのか、見たのか何も語らなかった。復員してからは大牟田で雑用係から新聞記者へ。三池炭鉱の朝鮮人暴動に巻き込まれ数日間拉致された。そこで殺されでもしていたら、当然私は生まれてはいない。父は幾つかの通信部、支局を任されて歴任、最終的には福岡総局で記者としては引退したが、新聞屋としてのポリシーは「真実を、いち早く」に尽きるものであったという。父は祝祭日の日の丸の揚げ降ろしを三男坊(私)に命じていた。父や部下の人たちの残した記事を読んでみたいと思いつつ父の享年に近づいてきた。